『無責任の新体系 ──きみはウーティスと言わねばならない』
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海外に出かけテロリストの人質になると「自己責任」論が叫ばれる一方、甲子園球児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となるように「連帯責任」の縛りも強い。若者は、社会から同時に押しつけられる「責任論」とどう対峙すべきなのか? 自由に生きる道はあるのだろうか? 丸山眞男、和辻哲郎、高橋哲哉、加藤典洋、ロールズ、アレント、レヴィナスらのテクストを読み解きつつ、日本社会における匿名性の可能性と限界について考察するフリーター系社会超批評。作戦名は「ウーティス(誰でもない)」。
以下読書メモ。
序章「ウーティスという責任」。実名と責任の関係から、『オデュッセイア』のウーティス(誰でもない)へと話は接続する。
つまりは、匿名になること。英雄のイメージとは程遠い、この姑息な作戦は、しかし、現代に生きる私たちにとっても決して無縁ものではない。
きっと私たちは無責任に居直ってもいい条件に関してあまりに無知すぎるのだ。無責任のもつ賢さがどこまで有効で、どんなときに失効して愚かさに転落してしまうのか。それが分からなければ、キュクロプスに勝つことはできない。
まずは「無責任の体系」から。
誰でもが責任があるが故に決定的な責任者ではない。
誰しもが悪いなら、誰も悪くないと同じ
丸山眞男『軍国支配者の精神形態』『日本の思想』、北田暁大(きただあきひろ)『責任と正義』、楜沢厚生 ( くるみさわあつお)『〈無人(ウーティス)〉の誕生 』 だったらどうする?
「誰か」を責任主体にする?
そいつが悪ければ、他の人はびた一文悪くない、ということになる
第一章「日本の無責任」。山本七平の「空気」を参照しながら、分人主義と責任の相性の悪さを指摘する。これは個人的な考えだが、一億分の一に希釈された責任というものがあるとして、それは責任として機能するのかはかなり怪しいと思う。なめらかであるがゆえにどこまでも滑り落ちる危うさがある。
かといって個人を復権したら問題解決とはいかない。というところで、日本文化と個人の無さという話に接続する。ここで、よくある日本像に疑問を呈しながらも
ただし、用心が先立つのであれば、それは無責任の不安に関する膨大に蓄積された、角度の異なる財産として捉え直すことができる
と道を延ばす。
第二章「間の熟読者たち」。分人主義の先駆ともいえる間人主義について。
弱さには、弱さを手放せなくなるという二重の弱さがある。
「赤木は、ここで敵意の先取りを行っている。
彼らが生き苦しさを覚えるのは、直接に敵意を向けられているからではなく、むしろ、駆り立てられた先回りそのものにあるのではないか。ときに滑稽のようにも思える、妄想的な想像力の空転自体に、匿名のまなざしが強制してくる困難が透けてみえる。
(前略)空気にしろ雰囲気にしろ、声として発言=発現されるに先んじて場の流れが人々の自由を拘束するとき、ウーティスが弱々しい個々人の背後に忍び寄る。「空気」によって生き(息)苦しくなる。
空気を読めない、読まない、強い個人による解決?
流体的なコミュニケーション。 脱個人化。
浜口恵俊(はまぐちえしゅん)『「日本らしさ」の再発見』『間人主義の社会 日本』
独立した個人ではなく、対人関係の中でこそ立ち上がる人性
「空気」
コンテキスト、テキスト以前のものに、流体的なコミュニケーションでは力点が置かれる。
和辻哲郎の間柄論
第三章「ペルソナの逆説」。タイガーマスクの本人不在性。笑い男事件。あるいはアンパンマン。仮面が持つダイナミズム。
脱個人主義が他者との接面において自己を表出させること。「他者がいるから人格がある」。誰でもがタイガーマスクになれてしまう。覆面で匿名化することの弊害。アレントのペルソナ。和辻哲郎。。「何」と「誰」
個人的にタイガーマスクの話で想起したのは、攻殻機動隊の笑い男であり、また別の角度からアンパンマンについても思いを馳せた。
あるいは、PSYCHO-PASSのアバターのっとり事件も。
ペルソナとキャラクター論のブリッジング、というどころか。
「誰」であるとは、どういうことか。
それはキャラクターとどう違っているか
第四章「演劇モデル」を反駁す
アレントが見るペルソナの機能→演劇的ニュアンス。「声を響かせること」と、流体的コミュニケーションの言葉以前のものの乖離。いったん、ここまでの見立て方を(既存の読み方からすれば)誤読だと引き受ける。その上で、和辻と共に読んだ上での解釈を重ねる。"「誰」がそれ単体では一種の空虚さを免れないことを考えたとき、「誰」が「誰でもない」との共犯で成り立っていることを洞察しないわけにはいかない。"
他者は類型的な仕方で登場する。匿名性→キャラクター
"割り当てられた役割に相当する責任をまっとうしようとすることは、役割外の無責任を同じくらい強く肯定する"
雑、というものの欠如。雑性
加藤典洋(かとうのりひろ)と高橋哲哉の論争。注視者/観客のニュアンスの違い。
『無責任の新体系』第四章「演劇モデル」を反駁す。アレントの演劇モデルに注意を向けつつ、加藤典洋と高橋哲哉の論争が取り上げられる。ペルソナは、「声を響かせること」を機能に持ちながらも、流体的コミュニケーションでは言葉以前のものに支配される。そのギャップにあるのは、ペルソナの選択性。
ペルソナに沿って発言するとき、その役割以外の発言は却下される。声にならない。つまり、声の複数性は抑制される。"割り当てられた役割に相当する責任をまっとうしようとすることは、役割外の無責任を同じくらい強く肯定する" この部分は本書のキーでもあろう。
僕の言い方をすれば、そこには雑なるもの(雑性)が欠如している。単一の、そして動かしがたい基準。シグナルフル。それがもたらす、機能的で抑制的な世界。 ピュトア。言い訳から生まれた架空の人物。すべての責任を負わされる人物。
”自分の庭を耕さなければなりません” ヴォルテール 『カンディード』
庭:目の前にある現実生活、毎日の労働にいそしむこと
関東大震災などの大パニックで、人間の理性が不安や恐怖によっていかに流されるのかを分析。
流言蜚語→潜在的輿論 (:顕在的) 「密かに低声を以て伝えられる」
一般意志2.0
私的な言葉
呟きのような言葉
ペルソナとは異なる声
体系化された知識や固有名の下に成立するイズムを一切もたず、「一種の粘体のやうな思想」を原動力として日常生活を坦々とこなしていく一般人たち。「庶民」というのは、この匿名の思想を擔う無組織集団である」
輿論と世論
輿論:パブリック・オピニオン(公論)
世論:ポピュラー・センチメント(人々の感情の集合体)←潜在的輿論
「匿名の思想」
粘体(:なめなか)
ノッペラボー
しかし「匿名の思想」は無責任だからこそ、圧倒的な軽さと柔らかさのなかで言葉を操ることができた
流言には責任感ある言葉など一切存在せず、匿名者たちの口伝えで、陰謀論やデマゴギーを伝播していく。
『感情化する社会』
そういうことが起きやすい社会状況が整っている。特にネット上では。
流言蜚語の現象が示唆しているのは、文脈を気にすることがなければ、つまり事前の約束事という制限がなければ、言葉は融通無碍な自由に過剰なほど開かれていく、ということだ。お喋りが止まらない。
フラット化、クソリプ、フィルターバブル。
ハイコンテキストな共同体(グループ)。トライブ、サロン
超流動化
役割の文節すら消え去った状況
ペルソナの声を回避し、空気の支配から脱却するチャンスがあるのではないか。
無言=沈黙の人々もまた、息して生きている。そして、自己主張しない彼らだって「低声」でひそひそとお喋りくらいはするのである。
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『無責任の新体系』第五章「匿名の現代思想」。アナトール・フランスの『ピュトア』を話のまくらとし、そこから清水幾太郎の潜在的輿論が考察されていく。潜在的輿論はペルソナとは違って「密かに低声を以て伝えられる」。そこに空気の支配から抜け出す鍵があるのではないか、と一石が投じられる。
重要なのは"無言=沈黙の人々もまた、息して生きている。そして、自己主張しない彼らだって「低声」でひそひそとお喋りくらいはするのである。"という部分。このお喋りをインテリは忌み嫌い、無視するが、ホントにそれでいいのだろうか。一般意志2.0にも通じる話。
また、"体系化された知識や固有名の下に成立するイズムを一切もたず、「一種の粘体のやうな思想」を原動力として日常生活を坦々とこなしていく一般人たち。「庶民」というのは、この匿名の思想を擔う無組織集団である」"という部分は梅棹忠夫の「アマチュア思想家宣言」を想起した。
加えて、「粘体」というのは、「なめから」と対比的に捉えられる気がする。ねばりけのある、すっきりと割り切れない何か。それは体系化(ツリー構造化)することはできないかもしれないが、そこにセミラティスな可能性があるのかもしれない。
第六章「正義と第三者」。前章の最後で、「匿名の思想」をつきつめたときに、人格を一切無視しても成立するような全体主義への道のりが示されていた。「誰でもない」は「誰がある必要もない」に滑り落ちてしまう。ペルソナの問題を回避できたしても、空気の問題は残る。
あらゆるペルソナを捨て去ったからといって、「本当の自分」が回復するわけではない。
エマニュエル・レヴィナス。責任=応答可能性、顔と仮面のイメージ、
「逞しきリベラリズム」井上達夫『他者への自由』
鍛えられたリベラリズムは、その解釈を自分と異にする他者と出会うことによって、狭い自己中心性を瓦解し、常なる相対化を命じている。主体との同化を免れ、反対に主体を審問しつづけるレヴィナスの絶対的他者論には、そういったリベラリズム更新のヒントがある。
レヴィナス「正義とは他者のうちにわが師を認めることである」
顔を優先すれば、顔が見えない人への配慮が失われてしまう。「かわいそうランキング」
「透明化された人びと」
ペルソナが風景と一体化して、顔が見られることがない。
弱者が、それも共感を得難い弱者が、あっさりと見捨てられてしまう、というのは『矛盾社会序説』でも指摘されている。でもってそれは、「無責任の体系」でもあるのだろう。決まり切った規範に、迷いなく従うことで生まれる無責任。
公平さと愛の不均衡
しかも、驚くべきことにこの局外者は、具体的で代替不能な他者のなかに宿っているのだ。
ある顔の中に、別の顔を見ること。
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『無責任の新体系』第六章「正義と第三者」。前章の終わりで、「匿名の思想」をつきつめたときに、人格を一切無視しても成立するような全体主義への道のり(失敗ルート)が示されていた。「誰でもない」は、「誰がある必要もない」に滑り落ちる。すべては統計となる。それはハッピーとは言い難い。
では、どうするか、というところで、エマニュエル・レヴィナスが持ち出される。本章はレヴィナスの他者論や正義について読み込んでいく。「逞しきリベラリズム」などいろいろ興味深い話はあるが、重要なのは以下の部分だろう。
"しかも、驚くべきことにこの局外者は、具体的で代替不能な他者のなかに宿っているのだ。"
ある顔の中に、別の顔を見ること。あるいは見てしまうこと。その可能性は、私と顔が一体一で対面するという閉鎖的な関係を開いていく。分人の考え方では現れない、第三者へのイメージが立ち上がってくる。仮面は顔のモデルでしかないが、顔は別の顔へとつながっている。これは、"人間は人と人の間でできている"ということにも呼応しているだろう。目の前の人もまた、別の人と人の間でできている。それが再帰的にイメージされるとき、概念が別の位相へと移っていく。
第七章「そしてヴェールへ」
まとめに入りつつある。
私たちはもう、このどちらかを選ぶべきだ、といった牧歌的な選択肢の前に立ってはいない。自己責任にしろ、連帯責任にしろ、帰責の操作の背後で意図的な、いや、ときに役割分担の分節から不可避的に要求される責任転嫁が生じてしまう。
p159
責任逃れを正当化するための材料はその気になれば無限に探し出すことができるし、実際ときにはそれはもっともらしくもある。
p.161
あらかじめ責任の範囲を区切ること、責任を単なるタスクの遂行に還元することには、なぜか抵抗感が生じてしまう。
國分さんの記事でも似た話を見かけた。
なぜでしょうか? 謝罪している側の心の中に「本当に自分が悪かった」という気持ちが現れていないならば、それがやはり何らかの仕方で謝罪を受け取る側に伝わってしまうからです。
人に謝る時、謝罪の言葉や動作を示すことはもちろん大切でしょう。しかし、謝るという行為において本質的なのはそれよりもむしろ、私の心の中に「本当に自分が悪かった」という気持ちが現れることです。
そして、どんなに「謝るぞ」と思ったところで、一定の条件が整わなければ、そのような気持ちが心に現れることはありません。人は謝ろうと思って謝ることはできないのです。
確かに謝るのは私であり、「私が謝る」のですが、しかし、謝罪において求められているのは、単に私が謝罪の言葉や動作を示すことではありません。私の中に謝らなければならないという気持ちが現れることこそが大切なのです。
p.162
しかも、アレもコレもほかならぬこの私のせい、と責任を無節操に請け負っていくレヴィナス的責任論ならば、転嫁のパスゲームを断ち切って、「無責任の体系」も責任のインフレも、たしかに止めることができるように思われる。
自己という切断点
しかし、ペルソナは少し角度を変えただけで別の相貌をもっている。
そして、まったく異なるように思えた仮面同士にも新たな結節を見出すことが、つまり新たな文脈の中に置き直すことができる。脱文脈化し再文脈化する。
p.166 167
ずれた位置が正しい視点だから移動するのではない。ずれによって生じる差が、自分のペルソナを、ひいては他人のペルソナを、絶対のものとしない正義に近接するからだ。
来るべきバカとの類似性
真正面に並ぶのではなく斜めから見なければならない。
無数の「何」。交換可能な「何」
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『無責任の新体系』第七章「そしてヴェールへ」。ここまでの話を踏まえた上での、一つのまとめ的な内容。章題が示すようにジョン・ロールズの無知のヴェールが解説される。
大切だと思うのは、"しかし、ペルソナは少し角度を変えただけで別の相貌をもっている。"という点。これは一つの顔が別の顔をイメージさせる、という話と呼応する。顔の複数性。仮面は付け替えられる。だとしたら、自分はあらゆる仮面をまとう可能性がある、という話になる。そういう想像から導き出される原理の模索。
もう一つ、"ずれた位置が正しい視点だから移動するのではない。ずれによって生じる差が、自分のペルソナを、ひいては他人のペルソナを、絶対のものとしない正義に近接するからだ。"というのは、『勉強の哲学』の「来るべきバカ」に近しいものを感じた。自己が変身(あるいは擬態)することで、他者へのまなざしに「かもしれない」を宿らせること。 第八章「楽しいテクスト論」。無知のヴェールへの、たとえばプルデューの観点からの批判。
が、誰しもそのような達観した態度をとれるわけではない、そこに至るには特別な訓練が必要なのだ、とブルデューはいう。
というのも、ロールズがいう「当事者」とは、あくまで虚構内でシミュレーションされる人生の主人公であり、アレかもしれあにしコレかもしれない、というアレやコレの諸々の具体相を我が身で引き受けることになるからだ。
偏りをゼロにするのではなく、さまざまな偏りの加算結果としての公平性
人生は具体的なものだ。言い換えれば、個々別々であり、それぞれが容易に一般化できない経験の厚みを備えている。そういった特異な人生の群れに対して普遍的に妥当しうる正義の原理を構想するには、全知の神の化身のようなモデルに頼るのではなく、非力ゆえに傾き偏る多様な人生をテストする必要がある。
かもしれない、の想像力が貧困ならば、そこから得られる正義の原理も必然的に貧弱なものになってしまう。
あとがき
改めて要約しておけば、本書のメッセージは単純で、第一に物語を読むことは素晴らしく、第二にたくさんの物語を読むことはさらに素晴らしく、第三にたくさん読むのと同じくらい何度も読み直すことが素晴らしい、ということだ。